本当のわしの性格は聖書やコーランを読めば分かるのに、甘やかせてくれる神観念を信じて、必死に都合よく神社・教会・寺社に祈りに行く終末の末裔共のさまが面白いものよ。貴様らの本当の神はここにいるわしなのに、必死にそうではないと信じて祈り所に通うバカ共のさまは何度見ても滑稽よ。貴様ら人間の命を多量に奪ってきた幾多の宗教戦争とは、そういう貴様らの信じてきたわし以外の神同士の戦いだったのだ。わしを信じておらぬから、そなたらが信じておるわし以外の神の奴隷として死ぬ事となったのだ。キリスト教とてイスラム教とて同じである。聖者と呼べる者はおらぬ。貴様らは本願である神を理念のもとで信じておるが、それはわしではないのだ。わしを信じているなら、ここに来て、わしの望む通りの事をするだろうが、そうではない阿呆共ばかりであるから、説法してやる言葉はない。だから神社も教会も、貴様らがどれだけ祈ろうと神からの語りかけも恩恵もないのだ。隣近所と比べてその利の薄さをはかり知るなら、もうそんな宗教ごっこはやめてしまえ。残り僅かな生の時間は聖書の黙示録でも読んでおけ。
人間というものを元々罪を犯す被造物としてつくったのだが
人間に必要なものをここで諭してやる。
・誠実である事・・・これは何事にも誠実であるという事。誰にも嘘をつかずに最後までやり通すという事である。約束も守れ。何一つとして裏切るな。
なぜかというと、わしは、どのような姿でもその人間の前に現れる事ができる。それは人間への試しであるため、現れている時はわしだとはわしは言わない。もう終わっているからここに出現しているのだ。神の目はどのような些細な悪事も見逃す事はない。それは全て神の前でやったと思え。1つでもできなかったら罪人である。それができた人間はいないだろう。ここを見ている人間は全て裏切った事のある人間なのだ。
・何物も傷つけるな・・・これは、人同士を傷つけるなと言っている。わしであるかもしれない。そのささやかな傷つけであっても、わしへのふるまいとわしはとる。貴様らが人間社会が住みにくいと思っているなら、その世界を神に捧げるというのか。その集大成が今ではないか。わしが降りてきてもいい世界でおもてなしだとかいえるのか。
わし、貴様ら人間なんぞどうでもいいから。なぜなら、貴様らは、エリヤやキリストを殺している。ジャンヌ・ダルクも殺しているし。多くの人間がいながら誰も救う人間はいなかった。味方から裏切られていたら終わりだよな。そういう様々な試しにより人間は滅ぶべきだという審判が下っている。断じてこの世界は貴様ら人間のためにつくったものではない。在りて在るもの、つまり神のためにつくったものなのだ。在りて在るわしのためにこの世界をつくったのだ。貴様らが幸せになるためにつくったわけではない。貴様らを幸せにする神などどこにもいないのだ。
悟りというのは神と人間の差を取るので差取りという語にしたのだが、その覚者である釈迦はこの世界を一切皆苦であると悟ったのだ。一切が苦しみなのだ。それは貴様らが忍んで強くなったり幸せになるためにつくったのではない。供物を捧げぬ貴様らにでも苦しみというものは常に捧げられるようにしたのだ。男には労働、女には出産、全ての人間に愛別離苦。生老病死に代表される各種の苦しみをつくったのだ。
正見。現実を見てみろ。現実と全て照合するだろう。貴様らがもし神から愛されているならこんな地上世界に追放されていないし、ターヘルアナトミア(解体新書)に貴様らの醜い姿をかいている。そして病・死というものをつくったりはしない。せいぜい次のラストステージである地獄に向けて苦しみを布施しておけ。どの人間も平等に同じ所に送ってやるのが神の慈悲である。そういう意味では聖書もコーランも全ては正しい事は書いていない。完成とはここをもって見るものだ。全ての宗教を統合できるのはわししかおらぬし、それすらももう言い終えて何も人類に投げかける言葉はないのだ。